大正8年の長尾草生園の通信販売カタログに掲載されているボタンは280品種と倍増し、大正11年には385品種と過去から現在までで最大の掲載数となっています。また、このうちの80品種が長尾草生園の長尾次太郎,田中新左衛門や弘栽園の高橋万衛門などの県内育成品種であることは特筆すべきことでしょう。また昭和5年にはシャクヤク台木にボタンを接木する技術を開発した江川啓作により‘新天地’が発表されています。新潟県花卉球根協会が昭和5年に発行した「越後の花」には、その他にも小合村の四柳六兵衛、両川村(現新潟市江南区)の木村五次郎、味方村(現新潟市南区)の林七、小須戸町(現新潟市秋葉区)の武藤喜兵衛らも新品種の育成を志したと記されていますが、作出年代や品種名等の詳細は不明です。
一方、県内のボタン苗は昭和2年に40万本、同4年には55万本、そして同7年には87万5千本と増産を続けていきました。このように明治末期から昭和初期までに多品種のボタンが大量に生産されるのと同時に多くの新品種も作出され、新潟県は全国一の生産地としてその名を馳せたのでした。
生産面では、昭和6年ごろに菅名村園芸会(現五泉市)や昭和10年に巣本村牡丹組合(現五泉市)が組織されています。前者はボタン栽培に適した火山灰土、いわゆる黒ぼくで育てられた「菅名牡丹」として当時有名で、昭和9年初出荷時の3,000本が同13年には5万本を産するまでに成長しました。後者は戦中戦後の衰退期を経ながらも県内随一のボタン生産地と発展しました。また、当時の県内屈指の栽培家としては、根岸村(現新潟市南区)の石黒松平、安田村(現阿賀野市)の大岡清治、三島郡大河津村(現長岡市)の白倉伴二がいました。このように、徐々にボタン栽培は小合村や小須戸町の外にも広がっていったのです。
「越後の花」(新潟県花卉球根協会 昭和5年)に掲載された新潟県牡丹原種園
ボタンを中心に生産販売した大岡水浮園(阿賀野市)の通信販売カタログ(昭和6年)
大正7年の小合村(現新潟市秋葉区)でのボタン栽培
長尾草生園でのボタン栽培(撮影時期不明)
新潟市一市日(ひといち)でのボタン栽培
(小林平和園 昭和初期)
量産されるようになったボタンの販路を拡大するために、大正9年に小合村村長の石塚秀茂や小田喜平太らによって小合園芸組合が設立され、翌年秋に横浜植木株式会社を通じて、千数百株の新潟ボタンがはじめてアメリカに輸出されました。
昭和2年にはチューリップの大規模生産を行っていた平和園の小林直次郎を会長として新潟県花卉球根協会が設立され、小合村及び小須戸町に優良ボタン45品種を植栽した原種圃場が設けられています。また、同協会により昭和3年に東京三越本店で宣伝即売のために「新潟特産牡丹陳列会」が行われました。陳列会はすこぶる盛況をきわめ、閉会を待たずして500鉢のボタンを売り尽くし、新潟ボタンを一躍知らしめることとなりました。さらに海外宣伝の手始めとして昭和9年に満州国大連市の喜久屋デパートにおいて、ボタン等の宣伝会が開催されています。昭和11年には、アメリカへ輸出するボタンの見本図集として「牡丹図譜」が出版されました。このように県内や近隣県から日本全土、さらに海外へと新潟のボタンは販路を拡大していったのです。
さて、戦時中には他の園芸植物と同様にボタン生産も壊滅的な打撃を受けました。戦後のボタン栽培史については、未調査の部分が多いため、特筆すべき事項に止めます。
昭和27年に日本牡丹協会が新潟市の長尾次太郎らの尽力によって設立されています。役員名簿には顧問に牧野富太郎博士、岡田正平新潟県知事、参与に塚本洋太郎博士(京都大学名誉教授)、相談役に穂坂八郎博士(千葉大学名誉教授)など、そうそうたる顔ぶれが並んでいます。
また、昭和30年ごろに新潟市の江川一栄によって‘越の茜’、‘紫雲殿’、‘栄冠’などの新品種が作出され、五泉市の樋口宥源はシャクヤクとボタンを交配し、黄花ボタンを同37年に初開花させています。
しかしながら、昭和40年ごろに新潟のボタン生産量は日本一の座を島根県松江市八束町に譲り、新潟で作出された貴重なボタンの多くも失われてしまったものも多いのが現状です。
昭和30年ごろに新潟市の江川一栄によって作出された‘栄冠’
樋口宥源作出の‘村松桜’
アメリカ輸出のための見本帳「牡丹図譜」(新潟県花卉球根協会 昭和11年発行)から田中新左衛門作出の‘五大洲’(左)と長尾次太郎作出の‘黒光司’
同書から‘日之出世界’(左)と‘玉芙蓉’
「実際園藝」(昭和6年)に掲載された新潟のボタン
昭和9年、満州国大連での花卉宣伝会へ出発