関根氏と同様、明治時代にボタンを栽培した人に長谷川三男三郎(1845〜1900年)とその子息玄三郎(1864〜1937年)がいます。この様子が明治44年に発行された「新潟県園芸要鑑」に記されています。
長谷川家は三島郡本大島村(現長岡市)の大庄屋であり、江戸時代より桃色のボタンを栽培していたと伝えられています。三男三郎が県会議員であった時に新潟よりボタン数品種を購入して栽培をはじめました。その後、玄三郎はさらに趣味を高じ、明治20年から近隣の趣味家について栽培法や接木法を研究し、東京、大阪、兵庫、新潟県中蒲原郡から毎年のように苗木を取り寄せました。明治末期には百八十品種、三百株ものボタンを栽培して、開花期には知友を招き観覧に供していましたが、明治41年より一般に門戸を開放しました。ボタン栽培を通じて、橋本関雪、石崎光瑤、木村武山、山田東洋や松本姿水などそうそうたる日本画家との親交もあったようです。
長谷川家には明治末から大正初期につくられたと思われるボタン192品種の花の特徴がまとめられた「牡丹花容一覧表」や牡丹園植栽図など、当時栽培されていた品種を知る上で重要な資料が残されています。また、長谷川家では明治43年から昭和25年頃までボタン切花の販売を行っていましたが、会津の人から伝授されたというボタン切花の延命剤の調合法が残されています。現在でもボタンの切花は花持ちが良くないことが知られていますが、古くにボタン用の切花延命剤があったという事実は非常に興味深いことです。
昭和5年に発行された「越後の花」等の資料には、長谷川氏のボタンも関根氏と同様、新津や小須戸の花き生産者に分譲されたことが記されています。
長谷川家のボタン園(撮影年不明)
現在も長谷川家に残るボタン
192品種の特徴がまとめられた「牡丹花容一覧表」(長谷川玄三郎 明治末〜大正初期)
長谷川家のボタン用切花延命剤の処方
前出の「新潟県園芸要覧」には、味方村でボタン28品種が栽培され、新品種も作出されたと記録されています。明治末期にはボタンの他にも、フクシア、ゼラニウム、チューリップなどの西洋草花やユリ、サクラソウが栽培されていたようで、代表的な栽培者として清水徳衛門、豊岡興左衛門、高橋平作、桜田幸助の名が上げられています。
ボタンの増殖は、江戸時代より日本各地でボタン台木にボタンの穂木を接ぐ方法(共台)で行われていました。ボタンは木本植物であるため播種してから台木として使用できるまでに長期間を要し、最も生産量の多かった農家でも年間200本の接木を行うのがせいぜいでした。しかし、明治30年頃に趣味でボタン栽培を行っていた小合村の江川啓作と四柳徳次郎は、ボタンをシャクヤク台木に接ぐことに日本ではじめて成功しました。
草本植物であるシャクヤクはボタンに比べて短期間で実生台木をつくることができるため、この技術を商業生産に用いた小合村ではこれまでの数倍、数十倍の苗木生産が可能となりました。その後、明治37年にシャクヤク台木のボタンが販売されはじめましたが、当初は一時的に活着してもすぐ枯れるとか、根が腐るとかいわれて買い手がつかず、共台の半値で販売されたり、共台で接木したものとして販売されたりしました。しかし、大正8年の通信販売カタログにはシャクヤク台木で増殖された旨が記されていることから、この頃には優秀さが認められ市民権を得ていたのだと考えられます。
記録によれば、昭和3年には小合村で30万本の苗木が生産され、最も多い生産者で2万本もの接木を行ったとされています。この時代に確立した繁殖技術の開発が、本県を日本最大のボタン産地へと導いたのです。
大正12年に小合園芸組合が摂政宮殿下に献上したボタン
‘越後獅子’と‘初日之出’