「花王」と呼ばれたボタンは、奈良時代に薬木として中国から渡来したといわれています。平安時代には寺院や宮廷で観賞用としても栽培されていましたが、江戸時代に入ると庶民にも栽培が広まりました。特に元禄から宝永年間(1688〜1711)に流行を来し、ボタンの専門書も発行されています。この時期に刊行された代表的な園芸書である「花壇地錦抄」には300品種以上のボタンが掲載されていることから、その人気のほどがうかがえます。
「越後名寄」(1756)と「佐渡志」(1800年代初頭)の記述から、新潟にも18世紀半ばまでには観賞用のボタンが移入されていたことが分かります。また、江戸時代より長岡市の御殿山(現在の親沢町、高頭町)に高頭家のボタン園があり、大正半ばに一般に公開され、昭和12年には面積3,000坪、300品種2,000株の規模を誇り、多くの人々が訪れたと記録されています。
さて、新潟におけるボタンの商業栽培は、江戸末期の文政の頃(1818〜1830)、または万延年間(1860〜1861)に小合村(現新潟市秋葉区)ではじまったと伝えられます。その後、明治初期に会津からボタンが導入されたようですが、栽培されていたのは数品種に過ぎなかったようです。
茨曽根村(現新潟市南区)の関根省吾(1845〜1900)は、30町ほどの土地を所有していた地主で、明治5年には村の組頭を務めていました。関根氏は趣味で果樹やオモトをつくっていたそうですが、明治20年頃大阪府池田市や兵庫県宝塚市からボタンの優良品種二百数十種を導入して栽培をはじめました。大阪や兵庫は江戸時代から続くボタン生産の本場であり、明治時代に数多くの園芸品種がつくられた地域です。未見ですが、関根氏は竹石七郎と共に明治中期に280品種を掲載した「牡丹一覧表」を発行し、明治27年には「牡丹写生図」を制作しています。その後、関根氏からボタンを譲り受けた小合村や小須戸町の生産者により商業生産が本格化しました。これが近代新潟における本格的なボタン生産のはじまりです。
江戸のボタン‘更科’(牡丹百珍譜 発行年代不明)
‘曙’(牡丹百珍譜)
‘獅子吼’(牡丹百珍譜)
‘越女裾’(牡丹百珍譜)