にいがた花物語

新潟県立植物園
history 2 江戸時代の園芸

園芸植物の生産 新潟市秋葉区

 次に観賞対象としてではなく、植物を生活の糧とした花卉生産に目を向けてみましょう。新潟は米作農家が多数でしたが、江戸時代も末期になると、禁止されていた副業が逆に奨励されたようです。現在、日本一の鉢物花木の生産地であり、さまざまな園芸植物が生産されている新潟市秋葉区の江戸時代末期の様子が「両組産業開物之巻」(1866)に見ることができます。
 編著者である小泉蒼軒は、幕末期の地理学者として知られる市之瀬新田(現新潟市秋葉区)の名主で、本書には新津九ヵ村及び小須戸三十ヵ町村の農家戸数と、そのうち余業に携る者の名前や業種が記されています。農隙余業品目としては、苗木仕立、植木師、薬草薬木仕立芍薬茴香(ういきょう)、草花商が上げられ、現在でも花卉生産の盛んな地域である秋葉区出戸ではスギやカラタチに加えて果樹や草花栽培が行われ、利益もあがっており専業となるような勢いであること、また浦興野(うらごや)は「草花作り(五名)」、また鵜出古木(うでこぎ)では、植木仕立てが行われていたことが記されています。このように江戸末期には、新潟市秋葉区で明治以降に続く花卉産地としての基盤ができつつあったようです。
 伝えられるところによると、秋葉区の旧新津市地域の花卉生産は江戸中期の明和年間(1764〜1772)にサザンカやボケ、キンモクセイなどの花木を行商したことにはじまり、天保の飢饉(1833〜1836)に仏花として花木の枝を米や麦と交換したことで発達したとされています。江戸末期の万延年間(1860〜1861)にはキンカン、ミカン、ボタン、シャクヤク、ゴヨウマツ、ボケなどが栽培され、はるか大阪や名古屋、会津、庄内まで行商に出たとの口承もあります。  一方、旧小須戸町地域では、一説によると旧新津市に遅れること数年、天明年間(1781〜1789)に花卉生産が興ったとされます。「新潟県園芸要鑑」(1911)によると、江戸末期には盆栽の栽培が広まり、以降、明治10年頃より東京や埼玉で盆栽の名品が収集され、後年京都や兵庫に出向いて収集研究に努めたとされています。
 秋葉区の花卉生産の盛んな地域は信濃川流域に沿って広がっています。この地域は近年までしばしば洪水によって被害を受けきたため、古くから米作のかたわら水害に強い花木の栽培が行われたと考えられます。

園芸植物の生産 その他の地域

 三条市保内も植木や盆栽の産地として県内屈指の歴史を誇ります。さまざまな口伝があり、その始原は約300年前のマツの栽培にはじまるとも、江戸中期文化文政期(1804〜1830年)までさかのぼるともされ、古くは山林種苗や、庭木や生垣用のツツジ、ツバキ、サザンカ、キンモクセイなどの植木が生産されていたと伝えられています。有名な幹がくねったような独特の仕立てた「五葉松の蓬莱(ほうらい)作り」は明治初期に虚無僧が伝えたと言われています。
 味方村(現新潟市南区)でも天保期、里正(郷里制の里の長)山宮氏が園芸を好み、園丁を雇い盆栽や花の栽培と販売を行ったといわれています。同家を辞した園丁が園芸を副業とし、明治まで命脈を保ち続けたようです。現在は絶えてしまいましたが、明治後期にはボタン、シャクヤクをはじめ、フクシア、ゼラニウム、チューリップなどの西洋草花も栽培されていました。
 石山村竹尾(現新潟市東区)では江戸末期にキク栽培がはじまり、佐々木村日渡(現新発田市)でも夏菊が栽培され、切花や苗の販売を行われたようです。夏菊は8月に挿し芽をし、稲の刈り取りが終わる10月に植えつけ、翌年田植え前に切花を収穫しますので、これらは水田の裏作として行われたのではないかと考えられます。
 山通村(現長岡市)では天保の頃から枝物を長岡藩牧野家に献上したのがきっかけとなり、サクラやウメの栽培が行われたと伝えられます。需要の増大に伴い明治にサクラが植樹され、「高畑の桜花」として多くの見物客が訪れました。
 このように本県の園芸の起源については定かではない点も多いのですが、江戸時代末期には副業としての花卉生産が各地で行われ、明治以降に続いていたことが分かっています。

チャボヒバの大木
天保の頃に植えられたチャボヒバの大木
(三条市保内)

ゴヨウマツの蓬莱作り
三条市保内に残るゴヨウマツの蓬莱作り

ツツジ
新潟市内に残る貴重な
江戸キリシマ系ツツジ‘紫霧島’

ツツジ
江戸菊は江戸時代に
長岡市で栽培されていた記録がある

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