江戸時代に江戸や大阪などの大都市圏で発展した園芸文化が新潟県にも移入されたことはあまり知られていません。寺泊出身の丸山元純は、医学を修めるために上京し、帰郷後に医業を営みました。彼の著した「越後名寄」(1756)は、越後を中心として各地を遍歴して集めた見聞のほか、故実の考証、さらに歴史、自然現象、民俗、社会、地理、本草などが事項ごとにまとめられた当時の新潟版百科事典といえる著作です。この中の事項の分類や順序が幕府の産物調査と同じであることから、「越後名寄」は幕府に提出した産物帳の控えを元にしたのだろうとされます。
では、「越後名寄」に記された園芸植物をみていきましょう。「花草類」には、「牡丹 山野には生えず、上方辺より根こし来る。苑に植て賞愛す」とあり、関西方面から移入されたボタンが庭に植えられて観賞されていたこと、また「芍薬 弥彦山などにある。苑に植る。艶麗なる者は方々より将来し、其数之を知るべからず」とあり、ヤマシャクヤクは弥彦山に自生するが、美しい園芸品種は各地から持ち込まれ、相当数が栽培されていたことが記されています。その他にも、菊、撫子(なでしこ)、燕子花(かきつばた)、花菖蒲、向日葵(ひまわり)や薔薇(ばら)などが取り上げられており、江戸や関西などの当時の園芸文化の中心地であった大都市圏から移入され、新潟県でも栽培されていたことが分かります。しかしながらこれらの植物がどの程度普及していたのか、また県内で改良されたかは分かっていません。
文化年間(1804〜1818)に著された「佐渡志」には、芍薬と牡丹が「人家園中に栽て花を賞す」、躑躅(つつじ)にはサツキ、霧島、琉球躑躅があること、また桜は「数品あり八重菊の花に似たるものあり」と記されており、佐渡にも古くから江戸や京都、大阪で発達した園芸植物が移入されていたようです。
この他にも幕末の県内にあった村上、新発田、与板、長岡、高田や村松などの諸藩の記録が存在すれば、当時の県内の花卉園芸の実情が判明すると考えられます。
花菖蒲の親であるノハナショウブ
「佐渡志」にも記録された霧島(現在の‘本霧島’)
正保年中(1644-1647)に江戸に移入された
記録のあるツツジ、琉球(現在の‘白琉球’)