にいがた花物語

新潟県立植物園
history 3 明治から大正時代の園芸

新潟県の動き

 新潟県における明治時代の花卉生産(一部は趣味栽培)の状況を「新潟県園芸要鑑」(明治44年)に見ると、北蒲原郡佐々木村(現新発田市)の夏菊、古志郡山通村(現長岡市)の切花、中頸城郡高田町(現上越市)の瀬尾氏の菊芸、中蒲原郡石山村竹尾(現新潟市)の草花、西蒲原郡味方村(現新潟市)の花卉、北蒲原郡濁川村(現新潟市)の近藤賢之助の朝顔、三島郡来迎寺村(現長岡市)水島義郎氏の花卉、三島郡深才村大字大島(現長岡市)長谷川玄三郎氏の牡丹が上げられています。
 これらのうち石山村竹尾や味方村では、明治半ばからグラジオラス、カンナ、フクシヤ、ゼラニウム、チューリップなどの西洋花卉が生産されていたことが記されています。しかしながら、これらの産地での西洋花卉の生産や近藤、水島、長谷川諸氏の趣味の花卉栽培は、大正から昭和にと時代が進むにしたがい衰退していきました。
 「新潟県園芸要鑑」には触れられていませんが、当時盛んに花卉生産が行われており、その後本県の花卉生産の中核をなす小合村(現新潟市)について、「越後の花」(新潟県花卉球根協会 昭和5年)及び「小合村園芸史」(日本牡丹協会 昭和30年)から状況をみてみましょう。
 明治初期の小合村では、キンカン、ミカン、ボタン、シャクヤク、ゴヨウマツ、ボケ等が小規模に生産されていたにすぎませんでしたが、明治中期から大正時代にかけて花卉生産は大きく発展しました。このきっかけをつくった植物が全国的な流行を引き起こしたヤブコウジ、品種改良と新しい接木技術により大量増殖が可能となったボタン、また積極的に導入されたチューリップやアザレア、シャクナゲなどをはじめとする西洋花卉でした。

新潟県園芸要鑑
江戸から明治時代の貴重な園芸の記録「新潟県園芸要鑑」(明治44年)

草花種類名集帳
明治時代に小須戸町(現新潟市)で栽培されたハナショウブやボタン等の植物が記録されている草花種類名集帳(高橋弘栽園 明治33年)

 新潟県初の通信販売カタログ「長尾草生園 営業目録 第壹號」(明治41年)には、ボタンやシャクヤク、ユリ、ツバキ、カエデ、サザンカ、ツツジ、保内産霜降松、盆栽などと共に、ナシ、モモ、リンゴ、カキ、ウメ、セイヨウナシなどの果樹や、バラ、チューリップ、アネモネ、クロッカス、ヒアシンス、グラジオラス、カンナ、ゼラニュウム、サボテンなどの西洋花卉が掲載され、当時これらの植物が小合村(現新潟市秋葉区)で生産、販売されていたと考えられます。
 その後、大正初期にはチューリップやアザレア、西洋シャクナゲなどの生産が本格化し、日本を代表する花卉産地へと変貌を遂げていきました。特にチューリップは、比較的気温が低く晴天が多い春から夏までの新潟の気候が球根を充実させるのに適していたため、大正時代に小合村で日本初の商業生産がはじまり県内に栽培が広がっていきました。
 このように、明治から大正にかけて西洋花卉が本県に移入され、現在に続く近代的な花卉園芸産業の基礎が形成されました。また一方では、古くから栽培されたボタンをはじめとするさまざま植物の増殖技術の開発や品種改良により新潟を特徴づける花卉が登場しはじめました。

越後の花
「越後の花」(新潟県花卉球根協会 昭和5年)は本県の花卉園芸を知る上で貴重な資料

変化朝顔
新潟でも明治から大正に流行した変化朝顔(新潟朝顔雑誌第5号 明治40年)

近藤賢之助栽培の変化朝顔
明治41年に開花した近藤賢之助栽培の変化朝顔「青糸柳雨龍葉紅錨咲牡丹大石花」(新潟県園芸要鑑 明治44年)

ヒアシンスの球根用袋
新潟でも生産されたヒアシンスの球根用袋(小林平和園 昭和初期)

花卉生産の様子
大正時代の小合村、四柳養樹園の花卉生産の様子

グラジオラス
新潟市一市日(ひといち)でのシャクヤク栽培
(小林平和園 昭和初期)

フクシア
三条市保内における「盆栽・庭園樹苗木」栽培
(新潟県園芸要鑑 明治44年)



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