にいがた花物語

新潟県立植物園
history 3 明治から大正時代の園芸

全国の動き

 大政奉還が布告され、時代が江戸から明治へとかわると他の欧米の文物と同じく洋種花卉が輸入されはじめました。当初は外国人商人によって、日本に在留する外国人のために洋蘭や球根が輸入されたようですが、明治20年代末から植物の輸出入を手広く行っていた横浜植木株式会社などの国内種苗商によって日本人向けの輸入が本格化しました。
 その後、明治36年頃から洋種花卉の栽培が流行しはじめ、高価であった西洋草花も縁日の植木屋や呼売の草花屋によって安価に販売されるようになりました。明治40年に出版された「実用農芸大観」には、草花の栽培が近来に及んで隆盛を極めており、また近来舶来種の輸入が盛んになり、本邦固有の草花はある一部を除く外はほとんど世人に忘れられてしまっているとの一文が見えます。明治35年から40年頃までに今日見ることのできる洋種花卉の大半が導入されましたが、毎年輸入されながらも栽培適地が見つからなかったチューリップのように栽培技術が伴わなかったものや、また日本人の趣味に合わなかったものは絶えてしまいました。明治期はニオイスミレ、アネモネ、チューリップ、ヒアシンス、ラナンキュラス、スイートピー、シネラリア、プリムラなどの草花や球根植物が人気を呼び、特にダリアは、前田曙山の「明治年間花卉園芸私考」に「ダリア程日本の天地を震撼した大勢力者は有るまい」と書かれるほどの人気を博しました。
 この流行に乗じて、明治38年以降に多額の資本金をもった日本種苗株式会社や東京園芸株式会社、植物の輸入を専門とする東京園芸商会が興されたり、国民新聞社に園芸部が設けられたりと園芸産業に参入する企業が数多く現れています。また、明治30年頃から園芸花卉の栽培書や園芸雑誌が次々と出版されました。
 前出の「明治年間花卉園芸私考」の中で前田氏は、「明治時代の栽培者は、技術の点に於て、徳川時代の先輩よりは遥かに劣って居た。彼等には独創の変品を出す事も出来ず、徒らに先人の糟粕(そうはく)を嘗(な)めて、巧みにお茶を濁して居るに過ぎない(以下略)」と嘆じていますが、明治は洋種花卉の輸入普及期であり、日本独自の品種改良が行われるまでには発展しなかったようです。
 時代が大正に入ると、国内における洋種花卉の需要が増大しました。大正期と傾向は大きくかわることはないと思いますが、時代は下って昭和8年に出版された「花卉栽培要覧」には、現代流行の家庭的趣味栽培の実例として「花壇物 チューリップ・グラジオラス・ダーリア・牡丹・芍薬・菊等。鉢物 大菊・小菊・朝顔・サボテン・洋蘭・プリムラ・シクラメン・シネラリア・ゼラニューム・石南(しゃくなげ)等。盆栽 松・梅・皐月・和蘭・萬年青(おもと)・山草等。庭物 バラ・ライラック・藤・つつじ等」が上げられているように、洋種と合わせて日本古来の園芸植物の人気も復興しました。

種苗商の通信販売カタログ
明治期に出版された種苗商の通信販売カタログ。左は東京三田育種場(明治34年発行)、右は日本種苗株式会社(明治41年発行)

ゼラニウム
明治から大正に人気の高かったゼラニウムは当時「天竺葵」と呼ばれ、花よりも斑入りの葉が珍重された(園芸植物図譜 横浜植木株式会社 大正4年)

チューリップ
日本園芸会雑誌に掲載された
チューリップ(明治38年)

日本産のユリ
日本産のユリは海外に大量に輸出された。
(「百合花選」横浜植木株式会社 大正11年)

グラジオラス
新潟でも生産されたグラジオラス。新潟県鹿峠村(現三条市)フタバ農園の広告(実際園藝 昭和4年)

フクシア
大正時代にはフクシアも人気を博した(横浜植木株式会社 大正5・6年定価表)



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