にいがた花物語

新潟県立植物園
history 5 ボタンPaeonia suffruticosa

新品種の作出 田中新左衛門

 もう一つ新潟がボタン産地として名声を博した理由に、明治からはじまった品種改良が上げられます。  新潟市秋葉区の田中家は江戸時代初期に川口新田に居を構え、新田開発の功によりの名主を務めた古い家柄で、代々新左衛門を襲名してきました。江戸末期、嘉永元年に生を受けた九世新左衛門は、明治に大流行して投機の対象にもなったオモトや斑入りのヤブコウジに多額の投資をしましたが、新潟県から明治30年に「紫金牛(やぶこうじ)売買取締規制」が発布されたことなどにより、大損害を受けました。その後に取り組んだのがボタンの新品種の作出でした。
 田中氏が語ったところによれば、ボタンを播種してから花を見るまでには5年から15年を要し、この間の苦心と努力は全く想像以上であったそうです。その後、明治末から新品種を発表しはじめ、逝去された昭和11年までに数百ものボタンを作出したことから牡丹翁と呼ばれました。代表的な品種には‘五大洲’、‘玉簾’、‘比良の雪’、‘鳳輦’、‘九十九獅子’などがあり、これらは現在でも栽培されています。

新品種の作出 長尾次太郎

 小合村の長尾次太郎(1868〜1930年)は、ボタンの新品種の育成に力を注ぎ、新潟ボタンの半数ともいわれる60もの品種を作出しました。氏がいつごろから品種改良に着手したのかは明らかではありませんが、記録から推測するに明治30年以前にははじめられたと思われます。当時の品種改良は、特定の花と花を交配するようなことはなく、どれでもできた果実を採集して播種する方法によって行われていました。また、実生苗の開花を早めるために接木をしたともいわれています。
 明治41年、長尾氏の経営する長尾草生園から県内初の植物通信販売用カタログが発行されました。その巻頭には、長尾氏の‘宝冠’など5品種と小須戸町の渡辺要吉が作出した‘姫御前’を含めた112品種ものボタンが掲載されています。これらは前述した茨曽根村の関根氏からの分譲品やボタン栽培で高名な兵庫県の坂上牡丹園から導入された優良品種でした。また、全国に向けて通信販売が行われるようになったのは、明治30年に小合村の最寄の新津駅が開業し、同38年には新潟から直江津、高崎を経由して上野まで北越鉄道、国有鉄道及び日本鉄道で輸送が容易に行えるようになったことも理由の一つだと考えられます。

牡丹翁 田中新左衛門
牡丹翁 田中新左衛門

御所桜
「Paeonia Moutan A collection of 50 choice varieties」(輸出用につくられた代表的ボタン50品種の見本図集)横浜植株式会社発行(大正4年)に掲載された田中新左衛門作出の‘御所桜’(右側)

五大洲
‘五大洲’

帝冠
長尾次太郎作出の‘帝冠’

初烏
長尾次太郎作出の‘初烏’

四方桜
長尾次太郎が明治41年に発表した
‘四方桜’(よもざくら)

牡丹花容及定価表
長尾草生園の第3号カタログ「牡丹花容及定価表」(大正4年)

長尾草生園の通信販売カタログ
新潟県初の長尾草生園の通信販売カタログには、112品種のボタンが掲載されている




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